聖書のみことば
2023年6月
  6月4日 6月11日 6月18日 6月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月7日主日礼拝音声

 主イエスの死
2023年6月第1主日礼拝 6月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第15章33〜41節

<33節>昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。<34節>三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<35節>そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。<36節>ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。<37節>しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。<38節>すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。<39節>百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。<40節>また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた<41節>この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

 ただ今、マルコによる福音書15章33節から41節までをご一緒にお聞きしました。
 ここには、主イエス・キリストが十字架上に息を引き取られたという出来事が語られています。主イエスは弟子たちを教えながら旅をなさり、「最後には必ず苦しみを受けて十字架にかかり、3日の後に復活する」と教えておられました。ですから、今日お聞きしている「十字架上で苦しまれ、お亡くなりになる」という出来事は、主イエスの地上の御生涯におけるゴール地点であり、また御生涯の頂点、クライマックスと言うべきところだろうと思います。
 ここに起こっていることを、一つずつ聞き取ってみたいのです。

 まず33節に「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。マルコによる福音書は、正午から3時に主イエスが十字架上で息を引き取られるまでの間、地上に暗闇が臨んだことを語ります。実際に何が起きていたのかはよく分からないのですが、これは自然現象として語られているのではないようです。この暗闇は、主イエスを喪うことの暗さを言い表していると言ってよいかも知れません。
 毎年クリスマスの季節に、主イエスがこの地上にお生まれになったことを天使たちが羊飼いたちに告げ知らせるという聖書箇所が読まれます。その箇所では、主の栄光が羊飼いたちをめぐり照らして、夜だったにもかかわらず、辺りが真昼のような明るさに満ちたことが語られます。あのクリスマスの日に羊飼いたちの上に臨んだ明るさ、あるいはイースターの朝の明るさ、そしてもう一つ思い起こせば、主の弟子たちを迫害しようとしてダマスコへの道を馬に乗って進んでいたサウロも、復活の主と出遭った時に、太陽より明るく輝く天からの栄光にめぐり照らされて落馬しました。主イエスが訪れて下さり、御顔を向けてくださるところでは、この世を生きている私たちの姿を明るく照らし出し、温かく包んでくださるような主の栄光の輝きが示されるのです。
 しかし今日聞いているところでは、それと正反対のことが起こっています。せっかく主イエスが地上を訪れ、「あなたと共に生きてあげよう。あなたはわたしに従って来なさい」とおっしゃって、私たち人間一人ひとりを招いてくださったのに、招かれた者たちは誰一人主イエスに従わず、反発したり逃げ散ったりしたのでした。その結果、主イエスは捕らえられ、十字架にかけられてゆきます。主イエスが十字架に挙げられた罪状書きには、「ユダヤ人の王」と記されていました。主イエスはまさしく御自身の民の身代わりとなって、王として、民全体の責任を負って十字架に掛かり、苦しまれます。この苦しみは、主イエス御自身の過ちや罪のせいではありません。御自身の子らとしてお招きになった者たちに代わって、その人々の身代わりとなって主イエスは苦しみ、亡くなってゆかれます。その暗さ、冷たさが暗闇という形をとって地に臨んでいます。

 この直前の聖書箇所で、主イエスが十字架に磔にされてゆく場面では、誰一人として主イエスの味方になったり、同情したりする者は現れませんでした。一緒に十字架につけられている死刑囚たちすら、自分の生きてしまった人生の結果、死を迎えざるを得なくなっているという事実から目を逸らし気を紛らわすために、主イエスを盛んに罵ります。主イエスは多くの人たちの嘲りと罵りの中、四面楚歌の状況で死んでゆかれるのです。
 正午から3時まで、重苦しい暗闇の時が続いた後、いよいよ最期の時が訪れ、暗闇の極まったところで、主イエスが叫ばれるのです。34節に「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」とあります。主イエスが叫ばれた言葉は、十字架の下にいる人間に聞かせようとして叫ばれた言葉ではありません。神に背き、逆らい、神抜きで平気で生きてしまった者たちの王として、神から厳しく裁かれる中で、その神に向かって叫んだ言葉がこの言葉なのです。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉は、主イエスが日常的に話しておられたアラム語ですが、これをヘブライ語に直すと、詩編22編の最初の言葉になることがよく知られています。「主イエスは死に瀕した時にも、旧約聖書の詩編の言葉を口にして神に祈りをささげ、励まされたのだ」と説明する人もいます。この22編の詩は、前半は、厳しい状況の下に一人取り残されたようになっている詩人が神に救いを願う詩ですが、後の方までを読みますと、神によって救われたことを賛美し讃える、感謝の詩に変わってゆきます。従って、主イエスは大変苦しい時にこの詩編を思い返しながら死に至るまで御言葉によって励まされたのだと考える人もいるのです。確かにそういうことは、私たち人間の場合には有り得ることだろうと思います。私たちは苦しい時に聖書の言葉を思い返し、それに寄りすがり励まされながら過ごしていくということがあるでしょう。
 けれども、主イエスの場合はどうでしょうか。主イエスは神の独り子であり、神の御心をすべて承知しておられるお方ですから、旧約聖書の言葉に教えられなくても、御自身の言葉で直接、神に向かってお語りになることがおできになったに違いありません。ですから、主イエスが御自身の言葉で「アバ、父よ」と呼びかける代わりに、「わが神、わが神、なぜわたしを」と聖書の言葉でお願いになっておられるのは、神に対する近しさよりも、むしろ、罪人たちの身代りとなって神から裁きを受けておられることの厳しさ、苦しさを表現していると言えるのではないでしょうか。主イエスはここで、神の独り子としての近しい思いで神に呼びかけているのではありません。むしろユダヤ人の王として、民が神をないがしろにしている罪をすべてその身に引き受けておられる方として、主イエスは、私たち人間が苦しい時に口にするような言葉で神に呼びかけられるのです。主イエスは私たち人間のために苦しみ、私たちに代わって神から捨てられ裁きを受けている状況の中で、尚、絶望せずに神の慈しみを信じて取りすがられたのでした。

 主イエスがこのように神に希望を置いて取りすがった時、それによって、目に見えて何かが変わったかというと、取り立てて変化があったわけではありませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を神がお聞きになって、憐れみを覚え、天から救いの天使をお遣わしになったわけではありません。もしそのようにして、神が主イエスを憐れんで十字架の苦しみから助けてしまわれたなら、主イエスが肩代わりして打たれる筈だった私たち人間の罪が打たれず、清算されることのないままに残ってしまうことになるのです。主イエスは、御自身の民の罪を肩代わりするお方として、どうあっても苦しみ、最後に死ななくてはなりませんでした。
 ですから主イエスの苦しみの中からの懸命の訴えは、主イエス御自身にとっては、さしあたっては何も引き起こしません。主イエスがどんなに訴えても答えはなく、助けが来ることはなく、苦しみはそのまま続き、そして主イエスは死んでゆかれます。

 しかし、主イエス・キリストが避けることのできない裁きの苦しみの下にあってこのように行動しておられることから、私たちは知らされるのではないでしょうか。主イエスは何故、このような状況下で父なる神に尚も祈られたのでしょうか。それは、神がまことに慈しみ豊かな方であることを御存知だからではないでしょうか。
 主イエスの場合には、神がまことに慈しみ豊かな方であり、その真実な慈しみを私たち人間の上に及ぼすために罪を滅ぼさなくてはならないので、罪を肩代わりした主イエスの苦しみは軽くされることはありませんでした。しかしそれでもなお、主イエスが神の憐れみに取りすがり、慈しみを求めておられるのであれば、私たちもまた、まことに苦しい時、主イエスに罪を肩代わりしていただいた者の一人として、神に憐れみと助けを願い求めることが許されるのではないでしょうか。
私たちが苦しむ時、しかもそれが私たち自身に責任があり、普通ならば決して赦されないような場面でも、自分の罪を認め、神の慈しみに取りすがるならば、その罪が主イエスの十字架に免じて赦されるのではないでしょうか。主イエスは、苦しい時に御自身が懸命に神に取りすがることで、私たちも神の憐れみに取りすがって良いことを、身をもって教えてくださっているのです。

 主イエスのこの懸命の祈りは、これを理解しない人々の嘲笑の的になりました。十字架の下にいた人たちが主イエスの言葉を聞き間違えて、「エリヤを呼んでいる」と見当違いなことを言いました。それによって主イエスは本当に孤独な中で、誰からも理解されないまま、苦しみ死んでゆくのだということが、よりはっきりと印象づけられます。
 しかしそれでも、主イエス御自身は決して諦めません。遂に最後まで神の憐れみを求め、慈しみを大声で願って息を引き取られました。37節に「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」と言われているとおりです。
 主イエスが息を引き取られた時、不思議なことですが、神殿の入り口を隠していた垂れ幕が真っ二つに裂けたことが38節に述べられています。この垂れ幕の出来事も、正午の暗闇と同様に、普通では理解することが大変むずかしい事柄です。
 しかしこの垂れ幕の出来事は、主イエスが私たちに代わって十字架にかかり苦しみ死なれ、陰府にまで下って行ってくださったので、それによって私たち人間の罪が清算され、そして主イエスを信じるならば、神との確かな交わりが与えられるようになることを表しています。垂れ幕が二つに裂けたことで、それまで人々の目に隠されてきた神殿の内部が見えるようになるということが起こりました。神と人間との間にあって、その間を厳しく隔ててきた隔ての壁が、主イエスが身をささげてくださった犠牲によって壊され、取り払われるのです。主イエスが十字架の上で息を引き取られ最後まで御業をなさってくださった、その時に、神殿の垂れ幕は二つに引き裂かれました。それは、主イエスの十字架の犠牲によって、神と私たち人間の間柄が確かにつながれたことを表しているのです。

 主イエスが最期の最期まで神の憐れみを願い求め、そしてひときわ大きな声で慈しみを願いながら息を引き取られたことは、これを注意して見守っていた人々に強い印象を与えました。特に十字架の見張りをしていた百人隊長にとって、この死の出来事は、強い印象を与えるものでした。この百人隊長は多くの十字架刑に立ち会っていましたから、その死がどのようなものかを知っていました。普通の十字架の死は、手足の傷から絶え間なく流れ続ける血と痛みの疲労によって次第に衰弱し、遂に意識を失い、そして死に至るのです。
 けれども主イエスの死は、百人隊長がこれまで見てきたどの十字架の死とも違いました。主イエスのように、大きな声で神に叫んで、その直後に死を迎えた人はいなかったのです。39節に「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。
 百人隊長とすれば、これは主イエスへの信仰を表しているという気持ちはなかったでしょう。そういう強い思いではなく、ただ、この囚人の死の様がこれまで見てきたどの死とも違うことを感じ、この人は特別な人だと思い、主イエスを「神の子」と言い表したに過ぎないかもしれません。普通なら何日もかかって少しずつ衰弱して死ぬところを、この囚人に限っては僅か半日で、朝9時から午後3時までの6時間で死ぬということが起こったからです。

 百人隊長自身は気づいていなかったかもしれませんが、しかしここでこの百人隊長の口から聞かれた言葉は、マルコによる福音書の中では、これまで誰も語ることのなかった言葉でした。「本当にこの人は神の子だった」と、そう百人隊長は言いました。
 思えば、マルコによる福音書は、その一番初めの書き出しのところで、「主イエスは神の子、神の独り子なのだ」ということをはっきり宣言した上で、主イエスのことを書き綴ってきていました。この福音書の1章1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉が表題として書かれています。
 「主イエスこそが、神の御子だ」と宣言して書き出されたこの福音書ですが、福音書の終わりに近い今日のところに至るまで、人間の誰かが主イエスのことを「神の子だ」と言う場面は出てこないのです。悪霊が恐れをもって「お前は神の子だ」と言い表す場面は出てくるのですが、人間は誰一人、弟子たちですら、主イエスのことを神の子であると言う人はいませんでした。もちろん弟子たちは、主イエスのことを優れた先生であると考えて尊敬し、ユダの国を立て直してくださるのはこの人を置いて他にないと思っていたでしょう。しかしそれでも、人間的な親しみや近しさや期待によっては、主イエスのことを神の独り子であると言うことはできなかったのです。

 しかしそれではどうして、主イエスが神の子だと分かったのでしょうか。それは、主イエスが神の独り子として、神から与えられた救い主の務めを身をもって果たされたからです。そして、そこで初めて「この方は神の独り子だ」という言葉が聞かれるようになるのです。
 主イエスが神の独り子として、神の御心をすべて御存知の方として、人間の罪を身代わりとなって背負い、御自身の民の王として十字架にかかり、苦しみながら罪を清算するという働きを最後まで果たしてくださる、そのことがすべて成し遂げられるまで、人間は誰一人、主イエスを本当には理解できませんでした。人間的な近さや親しみによって、主イエスを人間的に愛することはあっても、主イエスが私たちと神との間を結んでくださる神の独り子であることは、知ることはできません。
 主イエスのことを、「本当に主イエスは神の子であり、私たちの救い主、王です」と認めることは、十字架を見上げることによってそうなるのだということを、この百人隊長の言葉が示しています。百人隊長は、主イエスの弟子として従って来た人ではありません。けれども、主イエスの最期の十字架の苦しみと死の出来事を見ていて、主イエスの上に働く神の不思議ななさりように心を動かされているのです。普通であればもっと苦しみ時間をかけて死ぬはずなのに、神に憐れみと助けを求める、しかもそれが最も理解されない中で、深まり、大きな声で救いを求める、その節何に亡くなった様子を見て、「本当にこの方は、神の子だった」と語ったのでした。

 私たちは、自分の思いや都合によって神の愛を知ろうとしても、なかなか知ることはできません。けれども、「主イエスが私たちの身代わりとして十字架についてくださっている」ことを知り、そして私たちの罪を清算してくださった主イエスが「わたしはあなたの罪を清算した。あなたは神の愛の中でもう一度生きることができるようにされている」、そう招いてくださっている言葉を信じることによって、私たちは、神の愛と慈しみの許を生きる者とされていくのです。

 神の慈しみは、今日も私たち一人ひとりの上に確かに注がれています。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活を通して、それぞれに神の憐れみと慈しみが与えられていることを知る者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。
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